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もう一度読みたい【エッセイ・自分たち探し】
 フリージャーナリスト 國米 家己三さんのシリーズエッセイ



北京オリンピックは「人間賛歌」を歌えるでしょうか

ことによると、かってオリンピックの種目のなかに「芸術競技」というのがあったといっても信じてもらえないかもしれません。 しかし、たしかに1912年のストックホルム大会から1948年のロンドン大会まで、 芸術競技は通常のスポーツ競技と同時並行で行われていたのです。

その内容は絵画、彫刻、音楽、建築、文学、劇作など20種目にわたり、スポーツに関する作品を審査、 すぐれた作品の制作者に金銀銅のメダルを授与するというもの。 ストックホルム大会では「オリンピックで重要なのは、勝つことではなく、 参加すること」という、あの不滅の言葉を残したピエール・ド・クーベルタン男爵が 「スポーツに寄せる詩」で金メダルを獲得しています。日本人では、当時は翻訳技術も未熟でしたから 文学系の種目では振るわなかったものの、1936年のベルリン大会絵画部門で藤田隆治が「水上ホッケー」を、 また素描・デッサン部門で鈴木朱雀が「古典的競馬」をエントリーし、それぞれ銅メダルを手にしました。

ところで、純粋なスポーツ競技そのものについてよく考えてみると、それはもともと本質的に芸術的側面をもっている ことに気づきます。アスリートたちが渾身の力の限りを尽くして走り、跳び。投げ、泳ぐ。自らの限界点をすら越えて 記録に挑み、選手一人ひとりが全人生を賭けて闘う。瞬発し、躍動し、激走し、獅子奮迅する。その姿は、まさに美しく、 感動的です。だからこそ、ヒットラーの愛人と噂されたレニ・リーフェンシュタール女史がベルリン大会で総監督した 記録映画の題名は「民族の祭典」と、もうひとつが「美の祭典」だったのです。

毎回のオリンピック大会で、開会式、閉会式を含めて全競技の背骨を貫くもの、それは「人間賛歌」といっていいでしょう。 近年、テレビが世界の隅から隅まで普及して世界の全人口の70%以上がオリンピックを見守るのもそれゆえだと思います。 なかでも開会式のパフォーマンスは、全世界を魅了する"目玉"。その壮大な演出には、どうしても主催国のお国柄が反映さ れ人々を釘付けにします。奇抜なショウのアトランタ大会(米国)。パンクチュアル(時間厳守)で水も漏らさぬ運営ぶり の東京大会。地味だが説得力のある歴史絵巻を数千人で演じ、高い芸術性を示したアテネ大会。さて今回の北京大会はどの ような演出をみせてくれるのか、ひじょうに楽しみです。

もっとも中国は、このオリンピックを国威発揚の場ととらえ、そのため、なにがなんでも金メダル数で米国を圧倒、 世界一の座を占めたいと、選手強化にも莫大なカネを投じてきたようです。しかし、そこに起こったのがダルフール で虐殺を続けるスーダン支援の中国政府に対する非難。人権抑圧がらみのチベット鎮圧と聖火リレー騒動。 さらに大雪害や巨大地震の発生。足もとの経済も昨年から地価の大幅落ち込み、インフレの高進など揺らぎが目立ち、 中国はいま四重苦、五重苦に襲われています。しかも模造品、欠陥食品、大気汚染の問題。世界中が北京大会を不安視 しているのです。

窮地に立った中国は、ますますなりふりかまわず金メダル奪取に執念を燃やすでしょう。この期(ご)におよんで、 それしか窮地脱出の妙案がないと考えるにちがいありません。また競技中、中国人観客の特定国へのブーイングも 一層激化する可能性が大きい。ところが、それでは国威発揚どころか、国威低下は避けられません。どうか人口 13億人の巨大国家の矜持とゆとりを失わず、オリンピック精神の「人間賛歌」を大会の会期中歌い続けていただきたい。 心から、そう願わずにはおれないのです。