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もう一度読みたい【エッセイ・自分たち探し】
 フリージャーナリスト 國米 家己三さんのシリーズエッセイ



「量」のオリンピックの先に何があるのでしょうか

お国柄というか、民族の性(さが)というか、そんなものがモロに表出するのが毎回のオリンピックの面白くて、 すごいところです。今回の北京五輪でも、それぞれの国の選手がそれぞれの国の特質、持ち味を十分にだしていました。

まず、日本。一部、例外はありますが、やはり大きな舞台になればなるほど「内弁慶」ぶりを発揮する選手が多かった。 連戦連敗の男子サッカー。ご本家でありながら初戦で苦杯をなめることの多かった柔道。 それに、「金メダル以外、いらない」といって乗り込んだ野球でも、選手の大部分が萎縮して日ごろの力の半分もだせないまま 、失意の底に沈んでしまった。

一方、英雄主義のアメリカは、競泳でフェルプスがみごと史上初の8冠を達成、インドは人口11億の大国ながら、 これまで五輪で金メダル、ゼロ。国際政治でも西欧や共産圏を超越した第3勢力という位置に立ち、オリンピック でもメダルには超然としていました。ところが今回、間違って射撃部門で優勝。もっと驚いたのはジャマイカのボルト。 陸上100メートルで9.69秒の世界新を記録、同200メートルでも金を獲得しましたが、なんと「ボクのエネルギーの源 はタロイモ」といってのけた。タロイモは日本では縄文人の主食です。現代でもポリネシアあたりで食べていますが、 これが豊かな21世紀のオリンピック新記録を生む活力源だとは−。

今回の主催国、中国。この国を象徴するのは、なんといっても「量」。人口13億はもちろん、昔から「白髪三千丈」 とか「万里の長城」などといい、「世界一大きい、多い、長い」が大好き。だから競技施設建設に3千億元 (4兆8千億円)という空前の巨額を投入。北京市から住民約100万人を地方に移住させ、代わりに120万人 の解放軍兵士や警察官など治安関係者を入れたといいます。

開会式は史上最多、世界の元首80人と205カ国・地域の役員・選手団1万人超を招き、マスゲームに動員した市民 や兵士は1万4千人。壮大な式典に雨が降られたら台なしと、人工消雨のロケット弾1千発超を発射。華麗な花火 も3万3866発を打ち上げました。中国側の発表では、開会式の視聴率は98%。同国内で、「実に、いい開会式だった」 と評価した国民が90.3%。

もっとも北京市郊外から五輪会場に近づく足跡を花火にしたのがCG(コンピュータ・グラフィック) の合成映像だったということは国民には知らされていません。また7歳の少女が口だけパクパクさせて歌を歌う ゼスチャーをし、実際には別の少女の歌を流したり、56の少数民族の衣装をまとった子どもたちが中国国旗を広 げて会場をまわったものの、実際はみな漢民族の子でした。これも報道規制のため、みな知らないまま。偽装の 「量」もなかなかのものじゃないですか。開会式をプロデュースした張芸謀氏の発言、「これらは国家の利益の ためにしたこと。世界のすべての人々が100点満点と評価すべきだ」とは恐れ入りました。

かくて金メダルは51個、アメリカの36個を圧倒し、まさに「中華民族100年の夢」が実現したわけです。

が、終わってみるとこのオリンピック、なぜかむなしく、悲しい。五輪精神の「人間賛歌」が「中国賛歌」の 陰に追いやられたということもありますが、そればかりではない。もう世界は、はっきり「量」の時代を卒業し 「質」の時代に入っている。それなのに中国人は彼らの性(さが)で「量」に固執し「量」からでようとしない。 周回おくれの「量」なら、年月がたてば、そのうち「質」にという期待ももてます。しかし、民族性は変わらない。 この国の「量」の先になにがあるのか、想像すると背すじがゾッと寒くなるのです。