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もう一度読みたい【エッセイ・自分たち探し】
 フリージャーナリスト 國米 家己三さんのシリーズエッセイ



黒船騒動は、一面で、日米食文化の衝突でした

「日本の食物に関しては、大変結構とは言いかねる。見た目の美しさや豪華さにどんな贅(ぜい)を凝らそうとも、日本の厨房はろくなものを生み出していないと言わざるを得ない。全体として、食という面では、日本よりはるかに琉球のほうがすぐれていると思う」
 今年は横浜開港150周年。記念イベントをいくつか覗いてみましたが、やはり私の関心は黒船を率いて浦賀沖に現れたマシュー・カルブレイス・ペリー提督に向かいます。冒頭の日本料理についての印象は、ペリーの「日本遠征日記」のなかの1節。大変な酷評です。
 1854年2月、ペリーは前年に続いて再来航、念願の日米和親条約締結を果たします。その直後、日本側が黒船艦隊の将兵約450名を招き、横浜で祝賀の饗宴を開きました。もともと黒船は鎖国日本にとって"招かざる客"でしたが、こうして条約を結んだからには彼らは国賓。この饗応に幕府は律義(りちぎ)に1人3両、合計、何やかやで2千両近くを出費しています。1両は現在の10万円、台所が火の車の幕府が締めて2億円弱の支出をしたのです。しかも第1級の「七五三の膳」づくりは、江戸は日本橋の名門割烹、百川の料理人が指揮をとりました。
 にもかかわらず、ペリーは日本食を全く評価しない。なぜか。答えは、簡単。分厚いステーキがなかったからです。なにしろ日本は7世紀から明治維新まで肉食禁止を貫いた国。幕府自ら国禁を破るわけにはいきません。これに対して琉球は豚の飼育が盛んで、ペリーは日本往還の途中、必ず首里城に入って豚肉料理を振る舞われている。しかも首里王朝は東アジアきってのもてなし上手です。
 北米大陸でバッハローを追っていたアメリカ人は、どうしても肉なし料理では暮らせない。ペリーの黒船艦隊は米国を出て喜望峰を回り、インド洋を越え太平洋を北上する航海中、ずっと艦内で牛や羊、鶏を飼っていました。香港では生きた山羊数十頭を買い込んでいる。肉食民族にとっての肉へのこだわりは並みのものではありません。
 ペリーは英国南西部出身の米国入植者の子孫。典型的なアングロサクソンです。この民族は情報力が身上。彼も日本遠征を前にして周到に極東情報を収集。シーボルト、ケンペルらの日本関係図書をしっかり読み、対日交易の実績を持つオランダ人に会い、ペリーに先立ち日本に開国を迫って失敗したビドル、オーリック両提督や日本に寄港しようとして追い返された捕鯨船の船長らとも接触している。しかし画竜点睛を欠くというか、食文化についての情報収集は抜け落ちたようです。
 幕府の饗宴の数日後、ペリーはお返しとして旗艦ポーハタン号に幕府の役人70人を招待、午餐会をもちました。「日本遠征日記」にはこうあります。
 「私は苦労をいとわず、この大勢の客を気前よく招待した。彼らの出した魚のスープに比べ、米国人の歓迎とはどんなものか教えてやりたいと思ったのだ。牛や羊、さまざまな鳥にハム、舌肉、保存用の大量の魚、野菜、果物で山のようなご馳走を作った。向こうが出した分の20倍にはなるだろう」
 民族料理は、それぞれの国の文化の投影です。米国では量を大事にする実質本位の料理が定着し、サラダでもお皿の余白を残さないよう盛り付ける武骨さ。一方、日本では古代から獣肉を穢れとするとともに懐石料理のように凝った料理をきれいな器にこまごまと並べるこまやかさ。日米の食文化は、まさに対照的です。しかも150年以上も前は、その情報が相互に欠けていた。外交における「食」はきわめて重要な課題ですが、当時、幕府もペリーも相手の食文化に無知でいながら、格別、大事に至らなかったのは何よりのことでした。