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もう一度読みたい【エッセイ・自分たち探し】
 フリージャーナリスト 國米 家己三さんのシリーズエッセイ



災害が深刻であればあるほど日本人の本質が鮮明に表出します

 
3・11の大震災発生から1週間後。石巻の遺体安置所から50歳代とみられる女性がひとり出てきて、テレビカメラの前に立ちました。
「ええ、ただいま夫にあうことができました」
と彼女は静かにいい、ややうつむいてしばらく両手で目を押さえていたが、
「会えなければ、一生悔いが残りますものね」
「お陰さまで会うことができた私は幸せです。本当にありがとうございました」
彼女はカメラに深々と頭を下げたあと、背筋をしっかり伸ばして去っていった。
「もしかしたら元気でいるかも知れない」という一縷の望みは、夫の亡骸(なきがら)を確認することで完全に断たれた。改めて深い悲しみが襲う。だが、彼女は取り乱すことなく必死にその悲しみを抑えて、遺体を確認できた安堵感を語った。
しかも、この期(ご)にあって場違いな「幸せです」という言葉を口にしている。これはおそらく、瓦礫と汚泥の廃墟から夫を見つけ出し丁寧に体を清めてくれた自衛隊や消防、警察の方々への心からのお礼であり、同時に、まだ遺体に会えず、もがき苦しんでいる数万の遺族たちへの惻隠の情を込めたものだろう。ほんの短い取材者とのやりとりのなかで、彼女は折り目正しく公私を分け、ちゃんというべきことをいっている。「なんとも美しい人だな。あの奥さんは、きっとサムライの末裔だろう」と私は勝手に想像したものです。
作家の曽野綾子さんも書いている。「(福島第一)原発の出動した彼らは、人間として実にいい顔をしていた。そのほか、あらゆる立場で働いていた日本人は、男性も女性もすべて普段になくいい顔をみせてくれた。美男美女だった」(「SAPIO」4/20号)
避難所で「あったかーいおうどんが出ますよォ」と呼びかけがあり、被災者の長い行列ができた。ところが、うどんサービスはわずか30人分足らずと分かると、「私はいいから…」と配られたお椀を後に回す人が出た。受け取った人はまた後に回し、それが繰り返されて結局、残った子どもと老人がサービスの享受者になった。
こうした美談は、今回、被災地で無数に生まれた。瓦礫の荒野を背景に、美しい花がいくつも咲いたのです。
東日本大震災の映像は世界中に大量に流れた。各国の災害下ではかならずみられる略奪、暴動、便乗値上げなど、日本だけはいっさい起こらない。なぜなのか、世界のシンクタンクなど真剣に映像分析をしたでしょう。彼らはすでに阪神淡路大震災で日本人の節度ある行動にについて学習している。今回はそこを一歩踏み込んで、なぜこうも自己抑制の効いた秩序ある振る舞いができるのか、その解に迫ろうとしたようです。一部の分析家は、日本人固有の内面の特性とかかわりがあるという答えに達したらしく、例えば、いつもは私たちを辛辣に批判する「ニューヨークタイムズ」が、「日本人は立派で高貴」とまで書いている。
ただ中国のツイッターが「混乱ゼロの日本人のマナーのよさは、教育の結果。中国人は50年たってもこうはできない」といっているのは、表面的な理解に過ぎない。
なぜなら日教組など、戦後ずっと道徳教育に反対してきたくらいで、教育の影響があるにせよ、わずか。それより、この場合、もっと根源的な、この民族本来の賦質、天性によるところが大きいとみるべきでしょう。「みっともないマネはできない」「恥をかくくらいなら、死んだほうがまし」―。日本人一般の深層の「核」にある恥の文化、純度の高い美意識は並のものではありません。それが、災害が深刻であればあるほど、大規模であればあるほど、鮮明な形になって外側へ表出してくるのです。