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もう一度読みたい【エッセイ・自分たち探し】
 フリージャーナリスト 國米 家己三さんのシリーズエッセイ



文明の利器が、人々の「識人力」を衰微させる

   
近ごろ、どうしても人々の他の人間をみる能力が劣化してきたのではないかという事件が頻発しているような気がしてなりません。
「オレオレ詐欺」の罠に落ち込む被害者。高齢者が多いようですが、人生70年、80年と生きてくれば人間の識別眼もしっかりしてくるはず。だが、実際には何千万円も簡単に犯人に差し出したりする。
4月末、関越自動車道で起こったバス事故も、運行責任者が運転手の状況を注意深くみていれば未然に防げた可能性があります。てんかんの病歴がある運転手が通学途上の児童の列に突っ込んだ事件も、私たちの社会が人間の感情や健康状態の起伏、曲折に対する感受性を希薄にしていることを証明したケースといえるようです。
戦後の日本社会では、社会主義的なものの見方が次第に静かな広がりをみせました。「人間を見る」「人を識(し)る」などは時代遅れだという思想。「人」よりも、問題にすべきは「制度」や「豊かさ」「貧困」という考え方。知らず知らずのうちにわが国を弁証法的唯物論が浸食していった、ということになります。
そこにもってきてパソコンが普及し、インターネット社会を形成しました。情報の流通量は天文学的に巨大になり、社会はこれによって大きく進展したことは疑う余地がありません。しかし、どの文明の利器もそうであるように、メリットが大きければ大きいほどデメリットも大きい。ネット社会の定着によって、みんな「人」をみるよりパソコンの画面をみるほうが多くなり、職場の隣の同僚とのコミュニケーションにもパソコンを使う。上司への業務報告もネット利用。「スキンシップ」などということばは、大人の世界ではある特定の場合を除いてほとんど死語に近くなりました。
「人は、人に揉まれて人になる」―。頭では分かっているけど、現実は「人が人に気を遣って苦労する」ことを避ける社会になってきたのです。
私の場合、もう何十年も愛読してきた月刊誌を、近ごろ買うのに躊躇することが多くなりました。「今月は読むのをやめようか」と書店でなんど思ったことか。
なぜかとういと、編集内容に魅力がないからです。目次のページを開いてパッとみた瞬間、かつてはその時代、時代の核心を衝いた鋭い切り口の見出しに出会うことができました。そのたびにプロ編集者のすごみにゾクゾクっと身震いしたものです。しかし、ここ数年、それがありません。これも編集者たちの「識人力」の劣化とかかわりがあると考えられます。
近年のテレビ番組の低俗化には目を覆いたくなります。民放各局の、とくに夜の娯楽番組。よくもまあ、あれだけ能(脳)のないコンテンツを繰り返し流し続けていられるものだと思います。CMにいたっては食品だろうが薬品だろうが、次々とタレントが登場して踊ったり跳ねたり、忙しく飛び回るだけ。65歳以上の高齢者が100兆円を消費するという時代に、子供も鼻白むようなハチャメチャなCMを流しても、なんの効果が期待できるのでしょうか。幼稚なCMはつくれても高齢者向けCMを制作する能力がないことを告白しているに過ぎない。聴視料を国民から集めているNHKまでも、こうした民放に追随して、最近ヘタな笑いをとろうとする傾向がひどくなっています。企画力、制作力の劣化の背景には、やはり「識人力」の衰微があるにちがいありません。
なにしろこの国では、首相が内閣のキーポストである防衛相にもっとも不適格な人を起用して参議院で問責決議を突き付けられながら「適材適所」と強弁するほどですから、社会全体が「識人力」を失うのもやむをえないのでしょう。