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もう一度読みたい【エッセイ・自分たち探し】
 フリージャーナリスト 國米 家己三さんのシリーズエッセイ



日本語が天才なら、日本人も天才のはずですが…

 
 「日本語は天才である」という本があります。日本語は日本人が作ったもので、日本語と日本人は一体。だから日本語が天才なら、日本人も天才です。
と、思っていたら同じ出版社から「頭の悪い日本語」という本がでました。こちらは日本語をまちがえて使う人の話で、頭の悪いのは日本語でなくて日本人なのです。しかし、日本語と日本人は一体だから、こんな書名になったようです。日本語も日本人も、天才から鈍才までいろいろ評価されるわけですが、むかしから「天才ときどきバカ」というくらいで、これはこれでそのまま受け取ればいいのではないでしょうか。
で、「頭の悪い日本語」のほうですが、まず、一人の作家(実名を挙げて)が「すべからく」を「すべて」の意味にとらえて、しきりに誤用する話を紹介しています。また「好評嘖々(さくさく)」はいいのですが、「悪評嘖々」とまちがうケースが意外に多いようで、あの川端康成もその轍を踏んだらしく、ノーベル賞作家もバカをやっていたということです。さらに「歴任」という言葉。正しくは官職をいくつか歩くことで、私大、つまり民間の大学などに使うのはまちがい。「『桜美林大学、帝京大学、国学院大学などの非常勤講師を歴任』とかになると、滑稽ですらある」と書いている。
著者は東大大学院を修了した学術博士のKさん。少々、上からの目線が目立ちますが、その点にもちゃんと布石を打っている。「私の本など読んで『上から目線』と言われても、私は著者で相手は読者なのだから、それはある程度仕方がなというより、当然と言うべきである」
一方、「日本語は天才である」の著者のYさん。早稲田の英文科をでてまもなく翻訳家として一人立ちしました。デビュー直後、次のような文章(要旨)と出会い和訳することになります。
朝早く、太陽が東の地平線に顔を出したら、西の空にはまだ淡い月が残っている。そこで太陽が月に挨拶します。「You are a full Moon(やあ、満月さん)」。すると月は、そっぽをむいて怒っている。「You are a fool,Moon」(おう、バカな月よ)」といわれたと聞きちがえたのです。
「full」と「fool」の違いをそのまま訳したのではたんなるシロウトに過ぎない。翻訳家として出発したからには、プロのプロたるゆえんを示さねばー。そこでYさんは月が聞きちがえた部分について何日も何日も、寝ても覚めてもウンウンうなりながら七転八倒、考えて考え抜きます。そしてやっと満足できる訳文に到達した。
太陽が挨拶します。「されば、かの満月よ」。すると月は聞きちがえて怒り出す。「去れ!バカの月よ」。
翻訳業40年、Yさんは同じような経験を何度かかさねました。苦しみ抜いたあと、納得できる訳文に辿り着くたびに必ず深い達成感、充足感に浸ることができる。そうした充足感のなかで日本語のもつ柔軟性、ふところの深さ、器量の大きさ、そしてその奥底に潜む天才性に思いを致すのです。
Yさんはこの本で「天才」を定義している。第1に「先天的である」、第2に「孤独である」と。やや乱暴な定義ですが、やっぱり、これ、世界のなかの日本人とイメージがダブるのではないですか。
年間12万本の列車を運行する東海道新幹線の到着遅延は、1本当たり平均36秒。世界に突出した天才的緻密さ。反面、ありもしない慰安婦の強制連行説を世界中にばらまかれても長い間沈黙、孤立している。まさに「天才、ときどきバカ」そのままの姿です。
ただし日本人を「天才」といい切るにはいささか気が引けるので、ま、「天才型」というにとどめるのがいいような気がしますが…。