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もう一度読みたい【エッセイ・自分たち探し】
 フリージャーナリスト 國米 家己三さんのシリーズエッセイ



福沢諭吉の「脱亜論」は新しい光芒を放つことになります


 「悪友を親しむ者は共に悪名を免(まぬ)かるべ可(べ)からず。我れは心に於て亜細亜東方の悪友を謝絶するものなり」
 福沢諭吉が「脱亜論」を発表したのは明治18年。今からちょうど130年前のことです。福沢のいう「亜細亜」は中国と朝鮮半島。中朝の本質を見抜いて「悪友」と断じているのは痛快です。
 この翌19年、清国は外国から買った艦艇で編成した北洋艦隊を日本に派遣します。「こんな大艦隊を備えたぞ」と脅しをかける示威航海でした。途中、長崎に寄港した艦隊の乗組員が上陸、料亭で悪酔いのあげく大暴れ。警官が駆けつけ身柄を拘束したところ、夜になって艦隊の水兵300人が警察署を襲撃、日清双方に7人の死者が出ました。この長崎事件は外交問題に発展、当然、日本は謝罪と賠償を要求しますが、清は応ずることなくうやむやにしてしまった。現代中国は大幅な軍拡で威嚇、毒ギョウザ事件や漁船の海上保安庁巡視船に対する故意の衝突事件など陳謝の言葉はゼロ。中国は100年以上の間、なにも変わっていないことがよく分かります。「歴史はすべて現代である」といって「新・脱亜論」を著した渡辺利夫・拓殖大学学長は「福沢の『脱亜論』は日清戦役開戦の10年前のことであったことを顧みれば、まことに彗眼なるオピニオン・リーダーであったといわねばならない」と書いています。
 ところで、この「脱亜論」を書く15年前、福沢は腸チフスに罹りました。なんでも深川あたりのお祭りに出かけ、雑踏の中で虱をうつされたのが原因だとか。重病で、一時は死の淵をさまよい、慶応義塾の塾生たちが必死になって横浜から外国人の医師を連れてきて、やっと一命をとりとめました。以来、福沢は清潔な生活というものに深い感心を抱き、東京・三田の慶応義塾の正門前(現在の正門とはちがう位置)に銭湯3軒を経営します。しかも卒業する塾生をつかまえては、だれかれとなく「故郷(くに)」に帰ったら湯屋(銭湯)をやれ」と口説いたほどでした。諭吉は"湯吉"になったのです。
 こんな福沢だけに極端に不潔な、中国、朝鮮の実情を知るにつれ激しい嫌悪感をもったことは想像にかたくありません。「脱亜論」の下敷きには、この清浄・清潔の問題があったのではないかと、私はかねがね考えてきました。現代中国の大気、水質、土壌の汚染、欠陥食品の拡散、はてはブタの死骸の放流など、いずれも古くからつづく清潔感の欠如がもたらす中国人の一面です。明治半ば、福沢はすでにそれを見通していたのではないかというのが私の仮説です。
 さて、その「脱亜論」を戦後の日本の出版社は勝手に、なきものにしてしまいました。抹殺したのです。それも自他ともに進歩的とみとめる大手の出版社がー。福沢を主題にした本に「脱亜論」が脱落していて、ない。彼の年表からも消えている。中国のご機嫌を損じてはいかん、日中友好の上からも「脱亜論」はよろしくない、ということなんでしょう。一種の属国意識がそうさせたのかも知れません。しかし事実をありのままに伝えるのがジャーナリズムの基本です。その基本を忘れて表現の自由を自ら放棄したに等しいことをやってしまった。「脱亜論」を知らない世代も存在するのです。
 いま日本人は中国離れの流れのなかにいます。最近の世論調査では、80%を超える人が「中国に親しみを感じない」と答えています。「親しみを感じない」は「嫌いだ」が本音。日本からの訪中観光客は大幅減となり、企業も中国からの撤退がいよいよ目立ってきました。"進歩的"出版社を尻目に、「脱亜論」は新しい光芒を放つことになるでしょう。