ほのぼのマイタウン 街・家族の活性化を支援します 小平市・東久留米市・清瀬市・東村山市・西東京市を結ぶ手作り情報マガジン

> エッセイ・自分たち探し 目次


もう一度読みたい【エッセイ・自分たち探し】
 フリージャーナリスト 國米 家己三さんのシリーズエッセイ



5歳時代の"宝石"発掘で人生が明るくなります


この秋、文化功労者に選ばれた黒柳徹子さんは、おしゃべりの天才。40年もつづくテレビの長寿番組「徹子の部屋」は彼女の早口のおしゃべり御殿です。彼女自身語っていますが、幼いころから大変なお話し好き。小学校に入るとこれがアダになり、授業の邪魔だと登校停止に。やむなく他校に転校すると、そこでは校長先生がでてきて「話したいことがあったらなんでもいい、話してごらん」といって、なんと4時間も休まず話を聞いてくれた。しゃべるほうも、また聞く方もまことにりっぱな話ではないですか。
世界初の幼稚園を創始したフレデリッヒ・ウィリヘルム・オウグスト・フレーベルという舌を噛みそうな名のドイツの哲学者は「人は5歳にしてその人である」といい切っています。5歳ごろというのを、多くの人は「ろくに物心つかない稚拙な過去」としてあまり注意深く振り返ったりしないものですが、どうしてどうして実際はそこに、それぞれの個性の芽というか、結晶が潜んでいる。
脚本家の倉本聡さん。こちらもテレビの連続ドラマ「北の国から」で良く知られる人ですが、最近書いた自伝で5歳のとき父から命じられて宮沢賢治の作品を毎週1冊ずつ音読させられたことを回想しています。作品の内容は、よく分からない。けれど「音読を続けたことで文章の呼吸とリズムが幼い脳と心に染み込んだ」。もちろんその当時、本人は貴重な体験をしていることなど知りません。「おやじが僕に残してくれた『遺産』に気づいたのは40歳になってから」と書いています。
銀行マンから俳人になった金子兜太さんは、幼年期から埼玉の秩父音頭を聞きながら育った。父親が地元の民謡再興運動に力を注ぎ、毎晩自宅に人を集めて「歌や踊りやおはやしの練習をした。五七五調、五七五調。日本語の基本リズムは、こうして私の体のなかに染み込んだ」のです。
同じく幼児期から虫好きだった脳科学者、ベストセラー「バカの壁」で有名な養老孟司さんは、高校、大学時代も昆虫の"虫"。東大の解剖学研究室に残っても「とにかく土日は昆虫ざんまい」。定年退職後はゾウムシ分析に凝って、最近鎌倉の建長寺に虫塚を建立した。
その虫塚を設計したのが建築家の隈研吾さん。やはり幼稚園時代から友達の家に遊びにいっては家の中を興味深くのぞいて廻った。横浜の隅さんの自宅は戦前からの古い家で、周囲がみな戦前のモダンな新しい家ばかりのなかで目立ってしかたがない。一種のコンプレックスが建築家につながった。
最後に不肖、國米の5歳前後について話しましょう。北朝鮮の威鏡北道で生まれた私は、祖国日本をまったく知らない。だから両親が故郷を懐かしんで話す岡山に強く魅かれました。次第に日本の夢がふくらみ、毎日日本地図を見ているとご機嫌。小学校の入学前、父が内地へ出張する折り、せがんで一緒に連れていってもらいました。関釜連絡船から列車に乗り換え山陽本線を東へ走ります。車窓から見る瀬戸内海の島や金波銀波の美しさ、丘の緑の清らかさ。朝鮮に帰って、それからというもの、暇さえあれば「僕を日本に返せ、日本に返せ」と両親にねだり、とうとう終戦前、単身帰国して岡山の親戚の家から学校に通う身に。これが私の「日本人論」の原点になりました。
幼いころ、車のミニチュアに凝った、ギターを手放さなかった、いつも列車を眺めていた。それぞれ思い出して後年、「あっ、そうだ、これだ」と残る人生の新しいテーマにするケースは多いものです。幼年期に潜むこうした"宝石"を発掘すると、胃の腑にストンと落ちるものがあって、一気に世界が明るく見えたりします。