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もう一度読みたい【エッセイ・自分たち探し】
 フリージャーナリスト 國米 家己三さんのシリーズエッセイ



再び縄文本の出版がふえています



 しばらく低調だった縄文本の出版が、近ごろ、また目立つようになりました。「タネをまく縄文人」「クリと日本文明」「つくられた縄文時代」「美の考古学」「アイヌと縄文」…エトセトラ。縄文時代を考えることは、日本人の原点を振り返ることですから、まことに結構なことだと思います。
かつて"考古学ブーム"というのがあって、たしか青森の三内丸山遺跡の発掘を契機に古代の遺跡が多くの人々の関心をあつめました。とくに旧石器時代の遺跡めぐりなど長蛇の列ができるほどでした。が、これら旧石器のほとんどは捏造されたニセ遺跡だと判明、一気に考古学ブームはしぼみます。
しかし、もともと日本人には、過去を蔑む傾向があります。学校では太平洋戦争を教えたがらない。明治の初めは江戸時代のものをできるだけ切り捨てました。チョンマゲをやめたのはいいとして、各地の城郭までつぶそうとした。
「われわれに歴史はない。これから始まるのです」と明治政府の高官が話すのを聞いたドイツ人医師ベルツはあきれて「自分たちの歴史を足蹴にする国に未来はない」といったものです。その明治政府の検定教科書(小学校・歴史)には「最初吾ガ国ニ住居セシ人民ハ如何ナルモノナリシカ知リ難シ、唯古ノ記録ニ土蜘蛛ト云フ名アリテ其ノ穴居野蛮ノ民タリシヲ知ル」とあります。この「古の記録」というのが奈良時代にまとめられた「日本書紀」。自分たちの祖先、縄文人のミーム(文化の遺伝子)を受け継ぎながら「土ぐも」などと思い切り蔑称してはばからなかった。その影響でしょう、哲学者の梅原猛さんらひと握りの"縄文主義者"を除いて、現代の文化人の多くが縄文時代を無視、日本文化の始源は稲作の弥生時代だと信じています。
「タネをまく縄文人」にもありますが、日本列島でも5千年前にはダイズ、アズキ、ヒエ、クリなどが栽培されています。このころはユーラシア大陸ではヒツジ、ウシ、ブタの飼育が本格化。人為的に縄文人は植物の増殖と管理をおこない、向こうは獣類の増殖と管理、つまり牧畜に着手した。こちらは植物系食材を中心にした生業戦略を選択し、向うは動物系食材に依存したのです。植物と動物の違いこそあれ、双方ほぼ同じ時期に人智を絞って人工的に食材を生み出す方法を獲得している。彼我に時間差も優劣差もありません。
縄文人は、こよなく自然を尊崇し、大地を穢すことをひどく恐れました。土を掘り起こして自然を傷つけることに強い抵抗感をもち、農耕は抑制的でした。森は聖地、塵芥などで汚すことも避けました。鳥浜貝塚(福井)や三内丸山遺跡には厠(かわや)があったともいわれています。風の声、雨の色、波の形、空の姿のうつろいに鋭く反応し、山にも谷にも、また一木一草にも神宿るとして、シカやイノシシにも友情を寄せたのです。だから、イノシシの子、ウリ坊をとらえて家畜するなど、さらさら考えもしなかった。そのかわり三内丸山が代表例ですが、クリ林を造成してその実を「いただきました」。ただいただくだけではなく、縄文当時としてはめずらしい、クリの巨木6本で高さ20メートルもの神殿を建て、自然の恵みに深甚なる謝意と祈りを捧げました。これは現代日本人の自然観の原像でもあるのです。
最近活発な縄文本出版は、訪日客が急増したり、和食ブームが世界的な広がりをみせだして、日本人が自信を取り戻していることに関連があるような気がします。以前の考古学ブームはバブルがはじけたあとの沈滞した日本を背景としていましたが、今回は前向きの明るい雰囲気の日本のなかで、自分たちの原点を冷静に吟味しようといった機運が感じられます。