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もう一度読みたい【エッセイ・自分たち探し】
 フリージャーナリスト 國米 家己三さんのシリーズエッセイ



21世紀の、残り9割を自分たちの持ち味で生き抜こう


 2010年が暮れようとしています。21世紀の1割が早くも歴史のなかに移ろうとしているわけです。
 長い人類の文明史の中で21世紀はどういう位置を占めるのか。10数年前、今世紀を前にして21世紀を特徴づけるいくつかのキーワードを考えてみました。地球温暖化、公害、環境破壊など負の文明期を迎えた「折り返し点」。疲れた文明を癒す「社会の感性化」。IT技術の広がりがもたらす「庶民主役」。いよいよ存在感をあらわにする「中国」などがそれです。
 以上のような大きな流れのなかで、さらにもう一つ「多極化、多価値化」という言葉で21世紀の特色をくくることもできるような気がしました。大小、強弱といったタテ軸のランキングではなく、みなが多様な個性や価値を出し合いヨコ軸で質を問う世界。この1割=10年を振り返るとそのカラーは結構鮮明にわれわれの目の前に現れてきたように思います。
 その1例が大リーグに挑んだイチロー選手。「おい!ここはリトルリーグじゃないぞ!」とチームメイトに揶揄された軽量小柄な彼は、ホームラン打者が主役のパワー野球のなかで首位打者、盗塁王、新人賞、最優秀選手賞などタイトルを総なめにしてデビューを飾った。パワーばかりが野球ではない。頭脳と技と走力の異質な野球もあるのだ、野球文化は多くの個性、持ち味を出し合ってこそ発展するのだということを本場の米国人に知らしめたのです。彼のデビューは2001年21世紀最初の年です。そこにも彼の世界史的な意味があるように思います。しかも彼はその後10年連続200本安打の快記録も達成しました。
 「多極化・多価値化」では9.11の同時多発テロも挙げなければなりません。やはりこれも今世紀開幕の年の事件でした。決して褒められたアクションではなく、彼らが自己主張する手段は他にもあったはずですが、一握りといっていいイスラム過激派が世界のリーダーを自負する超大国アメリカのアキレス腱を衝いて「ここにもひとつの極がある」と宣言したのです。これを契機に、それまで米国が主唱し意図した「グローバリズム」は少なくとも政治的には挫折を余儀なくされました。
 リーダーの影響力が後退すれば他の国々が発言力を強めます。中国やインド、ブラジルなどが世界に向かって発信することが多くなった。今年10月名古屋で開かれた生物多様性会議(COP10)では新興国が先進国と対等に渡り合い、それなりの“果実”を手にしたのも象徴的なできごとです。
 一方、先進国の国内でも多価値化現象はみられます。保守、労働の2大政党制を伝統としていた英国に第3党が出現。米国でも先の中間選挙でティーパーティーなる新しい政治グループが活躍、多党化をみせました。1党独裁は野蛮、2党制も多様化する民意をくみ取ることはできないのです。さて、そんななか日本はどうだったのか。米国が主張したグローバリズムにすぐ呼応して「もう国境のない時代。『日本』『日本人』などというのはやめよう」と叫ぶ大新聞が現れ、よせばいいのに「民族は虚構」とまで主張した。民族が虚構なら家族も虚構、人間も虚構です。しかも悲しいかな、これに政治家や他のメディアが多数同調した。
 イチロー選手のように個人では見事な持ち味をみせる日本ですが、国として自分たちの個性、持ち味が分からない。しかも無極主義で、きょろきょろ周囲を見回すだけ。自分の意見もいえない。明確な国家ビジョンを掲げれば国民はすごい潜在力を発揮するのに、貧しい政治はそれができない。このままでは今世紀の残り9割90年を日本が真っ当に生きることは難しいのではないでしょうか。